院長足跡

院長足跡

3代目は家業を潰す?

3代目は家業を潰す?

1958年、東京都文京区で生まれた私は、物心がつく前に祖父母が住む千葉県の長生郡に移り住みました。文京区で歯科医院を営んでいた祖父が戦火を避け、疎開先のこの地で歯科医院を開業しており、父は祖父の歯科医院を引き継いだのです。当時はホタルも住んでいた田舎でのびのびと育った私は、住まいと隣接する診療室で、診療を眺めたり、歯科技工のまねごとをしてみたり、子供の頃から歯科医療が身近なものでした。

大学受験の際、両親は長男である私の進路について、開業医の跡継ぎとして歯科医師の道を無理強いすることはなく、自由に選択してよいと言ってくれたのですが、このような環境で育った私は迷うことなく、祖父、父の母校である東京歯科大学に入学しました。
父は内心、喜んだようです。80歳を超えた父は、今でも現役の歯科医師で、父の診療所で一緒に診療をすることもありますが、”お父さんは浩一の来るのを楽しみにしているのよ。”と母から聞いたことがあります。父は50年以上、地域の小学校の校医を務め、地域医療に貢献したことにより、数年前に叙勲の名誉に預かりました。
3代目は家業を潰す”というコトバがありますが、今のところ、吉田家は2代目・3代目ともに大丈夫のようです。

登山から得られた教訓

大学ではワンダーフォーゲル部という山登りのクラブに入りました。それまで登山の経験は全くなかった私にはカルチャーショックでした。夏合宿では2週間分の食料とテントを自分たちで背負い、風呂にも入らず、朝の4時前から歩き始めるのです。町なかでは、お金さえ払えばいくらでも手に入る水や食料も、山では自ら運ばねばならない貴重品であり、モノの有難味を初めて体感しました。これらは他のスポーツ等では学び得ない事かもしれません。
生命の危険を感じることも少なからずありました。山の自然は雄大で、美しいものです。と同時に自然の脅威はちっぽけな人間など到底叶わない凄まじさで、時には勇気ある撤退も必要である事を学びました。これは、基本に忠実に、自身を過信せず、無理な治療をしないという私の診療哲学となって今に生かされていると思います。

登山から得られた教訓1登山から得られた教訓2登山から得られた教訓3登山から得られた教訓4


補綴(ほてつ)治療の道へ

補綴(ほてつ)治療の道へ

6年間の大学生活も後半になると進路を考えねばなりません。歯科大学の卒業生は、勤務医として歯科医院に勤務するか、数年間、大学の医局で研修し、その後、勤務医から開業医に移行するのが一般的です。
ですが、モノ作りが好きな私は、歯科補綴(ほてつ)学という、入れ歯やブリッジによる治療を行う学問をさらに勉強したいと考え、大学院進学という選択をしました。
学費面ではさらに両親に頼ることになりましたが、大学を首席で卒業し、学者の道に進むことを希望しながら、経済的な理由で開業医とならざるを得なかった父が、もっと勉強したいという私の希望を叶えてくれたからこそで、父には心から感謝しています。

小宮山彌太郎先生との出会い

小宮山彌太郎先生との出会い

さて、大学では、私が入局した年に、研究室の先輩である小宮山彌太郎講師が、留学先のスウェーデンのイエテボリ大学から帰国されました。小宮山先生は近代インプラント治療の開発者であるブローネマルク教授のもとで研鑽を積み、大学に本療法を導入することになっていたようです。

普通であれば1年生など相手にされないのですが、留学前の怖い小宮山先生を知らない私は、〔知らぬが仏?〕なぜか、小宮山先生に可愛がっていただき、インプラントチームに入れていただくことができました。導入当初は、ブローネマルク教授が来日し、自ら手術をされました。当時はブローネマルク教授も今ほど近寄りがたい存在ではなく、来日の度に成田空港へお迎えに行き、帝国ホテルまで運転手を勤めさせていただいたのも、今では懐かしく、貴重な思い出です。

大学院生時代は、私自身が手術を行うことはなく、器具の洗浄や手術の準備等の小僧仕事を一手に引き受けました。診療面では上部構造の作製を担当させていただき、手術は全ての症例に立ち会い、経験を共有させていただきました。
この経験は、のちに自分で手術を担当させてもらうようになってから非常に有意義なものとなりました。実際の手術の場ではマニュアル通りにならない事も多く、そのような場合にどう対処したらよいかを知識として備えられたからです。

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ベルギー留学へ

ベルギー留学へ

大学での症例も少しずつ増え、私もインプラントを対象にした研究に携わることになりました。海外の学会で発表したり、スウェーデンに研修に出かけたりした経験は忘れられません。
歯学博士の学位を取得し、大学院を卒業後も、助手として大学勤務を続けました。順調に進んでいた大学でのインプラント治療ですが、あるとき、大きな変換点を迎えました。リーダーである小宮山先生が大学を退職することになったのです。
新たな道へ進む小宮山先生ご自身が一番大変ですが、大学に残されたインプラントチームも大変です。小宮山先生のすぐ下で働いていた私はインプラントチームを率いる立場となり、当時、まだ、その責務の器ではなかった私は、その重圧に体重も大きく減りました。


ベルギー留学へ2

ただ小宮山先生のご指導で、私自身が成長できたように、私の指導する後輩達も徐々に育ち、診療体制も少しずつ整ってきた1994年、私自身の留学の話が持ち上がりました。
ブローネマルク教授のご推薦で、留学先はベルギーのルーベン・カソリック大学医学部のファン・スティーンバーグ教授のもとと決まりました。ヨーロッパ・インプラント学会の要職を務められた著名な先生です。
ベルギーという国は、学会で一度訪れたくらいで、殆ど知識はなかったのですが、EUの首都の国だけあり、多民族国家で、オランダ語・フランス語・ドイツ語の3つが公用語となっています。

15世紀に設立されたベルギー最古の大学は、町全体が大学関係者であふれ、それこそ世界中から学生が集まっていました。私と同時期にチリから留学していた歯科医師たちとは、今でもやり取りをしていますし、医学部への留学でしたので、歯科以外の医学生とも交流を持つことができました。
また、様々な分野で日本各地から留学をされていた方々とも交流を深めることができ、とかく歯科の専門分野に閉じこもりがちな学者にとっては、大いに視野を広げる機会となりました。
留学期間は短いものでしたが、インプラントの衛生管理についての論文を仕上げることができ、専門的にも、また人生にとっても宝物のような経験をさせていただきました。

え?吉田先生が開業するの?

え?吉田先生が開業するの?

帰国後も講師として大学での生活を続けました。インプラント治療の需要も増え、大学付属の千葉病院と水道橋病院の2病院を行き来する忙しい生活でしたが、充実していました。
このまま大学勤務を続けるつもりでしたが、大学という決められた組織の中で、なかなか自分の理想どおりとはならないことも出てきました。どの職種でも組織のなかの一員である以上は、自分の思い通りに行かないのは当たり前ですが、結論として、私は開業の道を選びました。格好をつけた言い方をすれば、安定より理想を追求する事としたのです。

人一倍素っ気ない私の性格を知る周囲は、開業医向きではないと、みな一様に驚きました。私の倍以上、ぶっきらぼうで、やはり、開業医向きではないと言われた父でさえ心配したほどです。また、私には勤務医の経験がないので、歯科医院経営についての知識は皆無で、今から思えば、かなり無謀な計画だったと思います。ですが、一度決心したことは変えない性格の私は、開業準備に突き進みました。

開業の場所としては、遠方よりお出でいただいている患者さんが継続して通院しやすいよう、東京駅の近くとしました。またインプラント専用の手術室やインプラント関連の設備に大きなスペースを組み込むこととなり、それらの要因で資金もかかりました。しかしながら理想を求めて開業するのですから、妥協しては本末転倒です。大学病院より優れた設備を目指しました。
数年前の開業10周年の際に聞かされた話ですが、見学に訪れた同業の先生方は、大学病院以外を知らない私が、いきなり東京のど真ん中で、それも、この広さの診療室の開業では、きっと1年ももたないだろうと気の毒がられていたようです。ノウテンキな私は全く知りませんでした。

補綴科医としての喜び

補綴科医としての喜び

1997年3月。14年間(学生時代を含めると20年間)にわたり在籍した大学を離れ、4月12日に、ここ京橋の地に吉田デンタルクリニックを開設する運びとなりました。

ふたを開けてみると、幸いにも多くの私の患者さんが大学病院から私のクリニックへとついてきてくれました。これは私にとって大きな喜びであり、大学病院の医師というブランドがなくとも、患者さんのため診療に全力投球する姿勢を貫いていけば、その気持ちを理解してくださる患者さんが来てくださるんだという励みにもなりました。

歯を失って噛むところが少なく、崩壊状態になってしまい、長く悩んでいらっしゃる患者さんの口腔内を、ブリッジなりインプラントなりで美しく再構築し、治療が終わった患者さんの溢れる笑顔、そして感謝の言葉を頂戴できるのは補綴科医としての醍醐味です。
開業以来17年あまり、よりよい治療を目指し、自らのスキルアップと医院体制の向上を考え、走り続けて参りました。これからも自分の信じる道を妥協することなく歩み、ぶれることのない足跡をつけていきたいと思っています。


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